現代人は「噛む力」が弱くなったと言われます。そのせいか、顎が細くなってきており退化している、と。
確かに、僕自身、昔のように硬いものを食べる機会は減っていますし、帰国した際に原宿を散策しても、見えてくるのは「ふわふわ、とろける」と謳われた食べ物ばかり。口に入れただけで味がする柔らかいものだらけで、このままで未来は大丈夫なのか……と、つい心配になってしまいます。
そもそも咀嚼とは、口内で食べ物を噛み砕き、唾液と混ぜることで味わい、そして嚥下(えんげ)する作業のことですが、この咀嚼の回数が減ることが、現代病と言われる肥満や糖尿病、ストレスの一因であると言われ、「噛まないこと」で様々な弊害が出ています。
噛むことは、生きる努力である
僕には、フランスでのおじいさんのように慕っている人がいます。フランス味覚研究所(Institut du Goût)の創設者、ジャック・ピュイゼさん。世界的な味覚の権威と言われる彼に、定期的にお会いしては、「噛むことがどれだけ重要か」について議論しています。
その中でとても印象に残っているのが、「噛むというのは、生きる努力である」という言葉です。
人間は「オギャー」っと生まれて、目が見えなくても、耳が聞こえなくても、鼻が利かなくても、お母さんのおっぱいに喰らいつき、お乳を吸うことで生きる努力を始めるんだ、と彼は言います。噛む力は生きる力。だからこそ、「manger(食べる)+ éducation(教育)=manducation(食べる教育)」、さらには「éducation du goût(味覚教育)」をしっかりしなくてはいけないというのが彼の理論です。
では味覚教育とは何か。勘違いしている人もいるかもしれませんが、それは「五感を使って味わうことを学ぶ教育」であり、「味を教える教育」や「味を認知したり覚えたりする教育」ではありません。
自分が味わったもの、食べて感じたことを表現できるのは、自分しかいません。他の人にはできないから、いかに自分で表現するかを学んでいく。つまり味覚教育とは、自分自身の感覚や鑑賞力を育てることであり、自分の心からの表現に対して正直になることでもある、と僕は理解しています。
すると、食べることから「自分の意見を持つことの大切さ」も学べるということになります。さらに、一人で食事するのではなく、食卓を囲み他の人と会話を交わせば、自分とは異なる意見や価値に触れることができ、人との違いを認め、理解し合うことにも繋がるように思います。
咀嚼の回数が少なく、食べ物を鵜呑みばかりすると、唾液が出ず消化不良を起こしますし、脳が凝り固まりストレスの原因になります。それはまるで、人の話やニュースを解釈せずにただ鵜呑みし、情報過多により消化不良を引き起こし、ストレスに悩まされているのに似ています。
「ふわふわ、とろとろ」の危険
現代の食は、介護食でなくても、噛まなくても味わうことができるもの、それでいて栄養バランスも良いものが多いのも事実です。しかし、そうした便利な食べ物が増えると、咀嚼する機会が減り、噛む力が低下します。
噛む力が低下すると、不健康にもつながりますが、時代に喰らいつくこともできなければ、食いしばり踏ん張る事もできなくなる、というのが僕の考えです。噛むという努力をせず、楽な方に楽な方に流れていく。これは食べることも人生も、同じなのではないでしょうか。
噛めなくなると生きれなくなるということは、様々な研究でもわかっていますし、長生きしてる人ほど歯の残存数が多いというのも立証されております。また、咀嚼が減り、脳への刺激が減ることで認知能力が低下することから、近年では認知症の予防においても、噛むことが注目されています。
とはいえ、僕は料理人なので、研究や科学は専門家に任せ、やはり「食卓を囲む」ことの大切さを伝えられたらと思います。何を食べるかだけでなく、どう食べるか。咀嚼し、味わい、会話をしながらゆっくり食事を楽しむ。意識することで、心も身体も変わっていくはずです。
「人を良くすると書いて食」
「人を良くする事と書いて食事」
といいますが、愛情や友情は食事を通して育むもの。
だから、食というのは大切なんです。